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今日、目覚めたら、何と午後2時だった

「アチャー」っと思ったけど、
あせる理由もないので、「しょうもない」とあきらめた。
いつもは、一応6時の目覚ましには反応している。
結局は切るだけのことが多いんだけど。
今日は昔の「ダンチュウ」を読んでいた。
最近、料理を始めたことは以前書いたとおり。
その1冊に、お米の特集があったんだけど、
それを見ていて、目が点に

何か飯炊きに人生をかけているようなおじさんがやっている定食屋なんだけど、
良くみると、そのおじさん、どの写真も上半身、裸なのだ。
飯炊いてる写真も上半身、裸。
店の前で家族で並んで撮った写真も上半身、裸。
「おお、これがうわさの裸族か

正確に言うと「半裸族」なんだけどね。
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「人を裁く」(朝日新聞のシリーズ記事より)
やっぱり「増税やむなし」の主張をしている、最近の「朝日新聞」
「消費税」が増税されるたびに、繰り返される同じ意見。
あきれる他はないのだが・・・
でも、今日のこの記事と、夕刊で連載している「ニッポン人脈記ー魂の中小企業ー」は興味深く読ませてもらった。
「裁判員制度」について・・・賛否両論は当然あるのだけれど、ボクには何か腑に落ちない感じがしているのだ。今日のこの記事を読んでも、それは払拭できないでいる。
でも、何か大事なことを含んでいるような気がするのだ。
簡単に言うと、「裁判に被害者感情を反映させるかどうか」ということだ。
アメリカでは、「遺族が被害者の人生を振り返ったり悲しみや怒りをあらわにしたりすることが、裁きに加わる市民の心を惑わし、裁判の妨げになるか」で、今まで、大きく揺れ動いて来たという。
1987年に連邦最高裁は、
「被害者がどれほど素晴らしい人だったか、遺族がどれほど悲しんだかは、罪と何の関係もない。陪審員を過度に刺激し、証拠に基づいた判断から遠ざけるだけだ」として違憲の判断をしたが、
1991年の別の事件では、「被害者が一人のかけがえのない人間だったことを示すためのもの」として、違憲の判断を事実上、修正した。
陪審員制度の長い歴史を持つアメリカでさえ、これだけ揺れ動いている。
特に「死刑」に相当する判断は慎重だ。
しかし、アメリカの陪審員制度と日本が目指す裁判員制度には決定的な違いがある。
実はアメリカの陪審員は量刑にはかかわってないのだ。唯一、関わるのは「死刑」の時だけなのである。しかも、それには合理的な理由があるのだ。以下、その引用。
「米国の陪審員制度と死刑」
市民が量刑まで判断する日本の裁判員制度と異なり、米国の大半の州では、陪審員は有罪か無罪かの判断を担うだけで、量刑にはかかわらない。ただ、死刑事件は例外だ。連邦最高裁が02年6月に「裁判官が単独で量刑を重くする事実を認定し、死刑を選択することは違憲」と判断したことを機に、ほとんどの事件は陪審員が全員一致で「死刑相当」と判断しなければ、死刑判決が出せなくなった。
日本には、『がきデカ』の「こまわりくん」みたいに、安易に「死刑にしろ」という一部の論調があるようだが、同じ「死刑制度」を存続している、アメリカでも、「死刑判決」のハードルはかなり高いのである。
一方、この記事では、05年のアンケート調査の結果により、
「被害者・遺族が被告に重い刑を望んでいる場合に、刑を重くするか」について、裁判官の8割が「重くする方向」と答えたのに対し、市民は5割にとどまったとしている。
これって、どういうことだろうか

やっぱり「感情は配慮する」ということなのだろうか、それとも、何か法的な根拠があるのだろうか。
どうも、この制度は拙速のような気がしてならないなあ。
おやすみなさい。

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